吉川英治の『新・平家物語』に、若き日の平清盛が弟の平経盛(つねもり)が論語を読んでいるのを見て、こう嘆くシーンがある。
「何があるんだ。論語や四書の中に。 ― いったい、孔子なんて男に、人間やこの世の中を規定する、そんなえらい資格がどうしてあるのだ。孔子自体が、何を楽しんで、どれほど身がおさまっていたというのか。あのころの魯(ろ)だの斉(せい)だのという国には、血をながす喧嘩もやみ、泥棒も消え、奴隷もいず、うそつきもいなくなったのなら、はなしは分かる。だが、その孔子様からして、盗跖(とうせき)という大盗と、議論をたたかわし、偽君子(ぎくんし)の皮をひん剥かれて、説法に出向いたやつがあべこべに、まる裸の人間をさらけ出して、二の句もなく、逃げ帰っているではないか。ばかな頭を疲らすなよ。弟。この、いい月の晩にだ」
(第一巻 ちげぐさの巻 栗鼠の夢)
若き血がたぎり、常識にとらわれない平清盛を、吉川英治なりに捉えた表現で、吉川英治自身が同じように思っていたかは別である。私が面白かったのは「孔子自体が、何を楽しんで、どれほど身がおさまっていたというのか」という部分だ。『論語』の「先進(せんしん)」にこんなくだりがある。
孔子のまわりに4人の弟子たちが集まっていた。孔子は弟子たちに、各自何をしたいかを尋ねる。ある弟子は行政官になって、戦争や飢饉から国を救いたいと言う。ある弟子は行政官になって、人々に安定した生活をさせたいと言う。また、ある弟子は、有職故実の学問をおさめ、君侯の儀式を担当する官職につきたいと言うのだ。孔子はそれぞれの話しを「ふん、ふん」と聞いている。そんな中で曾点(そうてん)という弟子がこんなことを言う。「私は、春の暮れに、春服を着て、若者や子供たちを連れて、川で沐浴をしたあと、春の風に吹かれたいと思います」これを聞いた孔子は「あー、私はお前と同じことをしたい」と嘆いたという。
私はこのくだりが好きだ。聖人君子といわれた孔子が本当にしたかったのは、春に川で沐浴をして風に吹かれることだったのかもしれないが、それができたかどうかは『論語』には書いていない。また孔子の身がどれほどおさまっていたのかは知らない。奥さんはいたのか、子供はいたのか、裕福だったのか、とどのつまり、幸せだったかどうかも、たぶん分からない。
7月5日の『ホンマでっかTV⁉』で心理学者の植木理恵さんがゲストに面白いテストをしていた。おとぎ話に出てくる桃太郎の悪口を書かせるというものだ。アメリカの心理学のテストで行われているようだが、ヒーローの悪口を多く書ける人ほど、鬱になりにくい傾向があるそうだ。ヒーローの汚点や弱点という逆の発想を持てる人ほど、人生を楽しく過ごせるようだ。また、そういう人は年を重ねるに連れてヒーローの良い部分にも気がつくようになるとのことだった。
孔子の悪口を思いっ切り言っていた吉川英治の描く平清盛は鬱にはならなかったと思われる。(笑) 平清盛は年を重ねるに連れて、孔子の良い所にも気がつくようになったのだろうか。聞いてみたいものだ。(笑)