渡部昇一先生が亡くなられて15日ほどが経ちました。改めてご冥福をお祈りいたします。
渡部先生が亡くなられてから、最初に読み返した先生の本は先日ご紹介した『人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか?』(海竜社)でした。その後、なぜか無性に読み返してみたくなった著作があります。それは「白雲郷と色相世界」という著作です。これは昭和49年(1974年)に英潮社から出版された『漱石と漢詩』という本に収められています。夏目漱石の漢詩について先生の独自な視点から論じたもので、後に『教養の伝統について』というタイトルで講談社学術文庫からリプリントされています。当時私が持っていたのは講談社学術文庫のほうで昭和63年(1988年)が発行日(第6刷)になっています。
なぜ、この著書が読みたくなったというと、渡部先生との浅からぬ縁を感じることができるからです。というのも私は渡部先生を知る以前から夏目漱石とラフカディオ・ハーンが好きでその著作などに折に触れて接していました。ここでラフカディオ・ハーンが出てきた理由は、『教養の伝統について』の中で漱石とハーンを比較する章が出てくるからです(「スペンサー・ショックと明治の知性」という章)。社会学者のハーバート・スペンサーが提唱した社会進化論が漱石に及ぼした影響がどのようなものであったかを、漱石と同じ時代を生きたラフカディオ・ハーンと比較することで、より鮮明で浮彫になるように記述されています。
私が漱石の小説を読み始めたのは中学生になってからです。ただし、書いてあることはほとんどわかりませんでした。中学生に則天去私などと言われてもわかるわけがありません。また「坊ちゃん」にしても「吾輩は猫である」にしてもそうです。当時「坊ちゃん」は、坊ちゃんと伊予の学生との心温まる交友を描いたもの、という戯画化された風潮がありました。アニメーション、テレビドラマ、子供向けに書き直された本などで描かれる場合そうなっているものが多かったように記憶しています。しかし違います。「坊ちゃん」は、田舎と田舎者が嫌で嫌でたまらない東京の青年を描いたものです。それを漱石がユーモアと皮肉を込めて書いているのです。そういったところまでは当時はわからなかった。「吾輩は猫である」もユーモア小説ですが「吾輩は猫である」に出てくる会話のレベルは当時の漱石が小宮豊隆や寺田寅彦のような門下のお弟子さん達や高浜虚子のような友人との会話レベルと同じだったと言います。所々は理解できても中学生に分かるわけがないのです。私が漱石の小説が好きだったのはまず語彙の多さです。調度品の名前から着物の名前、髪の結い方など見たこともない言葉のオンパレードで「丸髷」なんて言われると、どんな髪型だろうと想像が掻き立てられたものでした。会話の面白さもありました。漱石の小説の会話にはなんといっても東京弁の軽快さ心地よさがありました。私は生まれも育ちも埼玉県ですが母親が東京生まれ東京育ちでしたので言葉の影響があったのかもしれません。母国語というくらいですから母親や親せきが話す会話のリズムみたなものが身についていたのかもしれません。また言葉以外でも漱石が描く東京も魅力的に映りました。上野とか神保町とか明治時代の風情を感じたのかもしれません。それと文章が漢文調になることです。渡部先生の『教養の伝統について』でも出てきますが漱石の漢文の素養は高いレベルにあったようです。先ほど語彙が多いと言いましたが漢字の多さも目立ちます。漢文を思わせる対句表現が多く出てくるのも漱石の特徴です。リズムがいいのです。そして漢文の素養のない私にとってはそれが新鮮だったのです。話しがそれますが、中学生の時、漱石が志賀直哉の文章を褒めているのをどこかで読んだ記憶があります。なんであんなに自然でいい文章がかけるのかという内容だったかと思いますが、私は志賀直哉の文章のどこがいいのか当時はさっぱりわかりませんでした。漱石が褒めた自然な文章に面白みを感じられなかった。むしろ漱石のような癖のある(私にとって)文章のほうが面白かったのです。作家の林真理子さんも志賀直哉の文章について似たようなことを言っていたように思います(違ってたらすみません)。ですから漱石が好きな人には旧漢字にルビが振ってある全集などで読むことをお勧めします。漢字や漢文的な要素を楽しめます。私が漱石を好きになったのは以上のような単純な理由からだったのです。話しがそれますが、何の本か思い出せないのですが、渡部先生が面白いことを言っています。大学院の面接試験か何かを先生がされていて、学生に好きな作家を聞くと漱石と答える学生がいるが、大学生に本当に漱石がわかるのだろうか、それに”東京”が分からないと漱石は分からないのではないか、というようなことを書かれていたように思います。田舎から上京して貧乏学生だった先生は電車賃ももったいないのでよく歩かれたそうです。上智大学は四谷ですから山手線の円の中心くらいです。歩こうと思えば上野でも渋谷でもだいたい行けます。実際歩いて何となく東京がわかるようになって初めて漱石がわかってきた、というようなことを言っています。この感覚は鋭いですね。ちなみに漱石は牛込(今の新宿区)に住んでいました。
続いてラフカディオ・ハーンですが、あるテレビドラマがきっかけでハーンの存在をしりました。昭和59年(1984年)に『日本の面影』というテレビドラマが放送されたのをご存じでしょうか。ラフカディオ・ハーン(日本名 小泉八雲〈こいずみやくも〉)の半生を描いた伝記ドラマです。脚本は「ふぞろいの林檎たち」で有名な山田太一さん。NHKの制作で全4話が放送されました。ラフカディオ・ハーンを演じたのはミュージカル映画「ウェストサイド物語」に出ていたジョージ・チャキリスで、ハーンの妻せつを檀ふみさん、その他小林薫さん、津川雅彦さん、伊丹十三さん、杉田かおるさんなど豪華なメンバーが出演してました。私はこのドラマに描かれる日本とハーンに惹かれました。ハーンが赴任した松江は城下町です。ハーンには松江が古い日本の面影を残す魅力ある街に映ったのです。ハーンは古事記を読んでいて、古い日本の神話に興味を持っていました。ハーンは松江からほど近い出雲大社へ行きます。そこで古事記で読んだ神話の世界が現在でも生き続けていることにいたく感動します。私はハーンという外国人(後にハーンは日本に帰化します)のフィルターを通して日本の魅力を教わったのでした。私はハーンの著作を少しづつ読みました。当時恒文社の作品集が新装されていましたので一巻ずつ買っていったのを覚えています。渡部先生は旧制中学の頃、佐藤順太先生という師にめぐり合ってハーンの文学論のお話しを聞いたそうです。私が言うのも生意気ですが、その方は当時ラフカディオ・ハーン著作集を持っていて、ハーンの文学論を高く評価していたというのですから相当教養があった方だと思います。渡部先生の大学の卒業論文の題材も確かラフカディオ・ハーンだったと記憶していますので、佐藤先生のお話しが記憶に残っていたのではないでしょうか。そんな教師にめぐり合えるなんて羨ましい限りです。私事ですが、私は某私立大学の文系の学部に入学したのですが、その時の英語の入学試験の長文問題はラフカディオ・ハーンのエッセイだったのです。数行読んだだけでしたが、何が書いてあるか全文わかってしまったのですから合格できたわけです。
以上のように漱石とハーンに関する素地はなんとなくあったわけです。それなりに漱石とハーンに関連する書籍も読みましたし、その中にはいいものもありましたが、漱石とハーンに関する著作で目から鱗が落ちるような感覚になったのは渡部昇一先生の「白雲郷と色相世界」と「スペンサー・ショックと明治の知性」だけでした。(渡部先生の著作には目から鱗が落ちる思いをしたものが数多く存在します)「わかった!」という感じです。漱石とハーンがどのように時代を生き、作品を残していったか手に取るようにわかったからでした。また何よりも人間には「知」の働きと「情」の働きがあってそのどちらのバランスも重要であることが理解できたのです。パスカルの「幾何学的精神」と「繊細なる精神」に通ずるものがあります。では人間の「情」とは一体何なのでしょう?