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渡部昇一  最新刊『人生の手引き書』小恍惚(ピーク・エクスピアリアンス)は幸せへの道 その1 

投稿日:2017年5月26日 更新日:

「小賢しさを捨てて、感動を得る」

(ルーミー)

故・渡部昇一先生の最新刊『人生の手引き書』~壁を乗り越える思考法~(扶桑社新書2017年5月)を読んでいたら、懐かしいフレーズに出くわしました。第一章「脆弱な自分にきづいたとき」の「”小さな恍惚”を、いたるところで見出すことができる人は、幸せである」という小項目です。これは渡部昇一先生が昭和47年(1972年)に「『人間らしさ』の構造」(産能大学出版部)の第十一章「小恍惚(ピーク・エクスピアリアンス)を得る道」の中で書かれた考え方で「もっともよきものは与えられる」という聖トマス・アクィナスの考えに根差しているものです。例えば、一番わかりやすいものは生命(いのち)です。生命(いのち)は正に授かりものです。生命(いのち)そのものを人間が創り出すことはできません。宗教によっては神によって創造されたものということになります。筑波大学の村上和雄さんの本か何かで読んだのですが、遺伝子工学の発達によって、大腸菌を使ったタンパク質の再生が可能になっているそうです。大腸菌があれば有用なタンパク質を作れることになりますが、大腸菌そのものを人間が作り出すことは不可能だそうです。大腸菌は細胞の中でもシンプルな細胞だといいますが、それでも人間には大腸菌ひとつ作ることはできないそうです。大腸菌は「与えられたも」で、いわんや生命(いのち)をや、ということになります。

聖母マリアが受胎告知を受けた時、「仰せのごとくわれになれかし」と全面的に”受け身”の態度を示したことが「与えられること」をよく象徴しています。渡部昇一先生はカソリックですが、非常にわかりやすく与えられること、受け身でいること、またそれにより得られる小恍惚感(ピーク・エクスピアリアンス)を表現されています。哲学者カントと聖トマス・アクィナスの認識の態度を比較して、カントを能動的、聖トマス・アクィナスを受動的と指摘しています。カントが晩年脳の働きが衰え本当に「恍惚の人」となって死んでいったのに対して、聖トマス・アクィナスは幸福な人生を終えたそうです。興味深い話しです。

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