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渡部昇一  最新刊『人生の手引き書』小恍惚(ピーク・エクスピアリアンス)は幸せへの道 その2

投稿日:2017年5月27日 更新日:

先述した渡部昇一先生の「『人間らしさ』の構造」の中で、小恍惚(ピーク・エクスピアリアンス)を得るものの中に「物のあはれを知る」ということがあげられています。

”久方(ひさかた)の 光のどけき 春の日に

しず心なく 花の散るらむ”

紀友則(きのとものり)の有名な和歌ですが、渡部昇一先生はこれを「この全く純粋に日本的な短詩は徹底的に観照的である。つまり心が受身になっていて『物のあはれ』をよく現わしていると思う。 - 穏やかな春の日ざしを受けて、ひらひらと散る桜をみて、『ああ』という気持ちがあればよい。この心が、『物のあはれ』を知る心であり、大和心(やまとごころ)でもあるのだ。この紀友則の心は小恍惚である」(「『人間らしさ』の構造」新装版P.182)と述べている。この和歌が徹底的に観照的な心の状態、つまり心が受身になっていることを指し示していて、この状態の時、人は小恍惚を得ることができるというのだ。渡部先生は外国に留学していた時に、この紀友則の和歌を思い出し、心にジーンときたというようなことも他の本で言っています。外国で暮らす日本人が、ふとした拍子にこの和歌を通して遠い祖国を思い浮かべている様子は、正に小恍惚ではないでしょうか。

また、「憐れみ」についても深い考察が見られます。「憐れみ」というと相手を見下すようなものとしてとらえかねない。例えば乞食や捨て犬に対する感情というふうに。しかし本来の「憐れみ」の意味は違うといいます。英語でピティフルという単語は「憐れな」という意味ですが、元来は「憐れみの心にあふれた」という意味になるそうです。例えば、磔になったキリストを聖母マリアが抱いている姿を描いたピエタの像にはマリアがキリストを見下しているのではなく、憐れみを抱いていることが読み取れると渡部先生は言います。「憐れみ」というと重い感じがしますが、「かわいそう」という感情がしっくりくるかもしれません。

渡部先生にはお子さんが3人います。末っ子の男の子が小学校に上がる前の年頃に無邪気に遊んでいる姿を見た時、「かわいい」を通り越して「かわいそう」という感情が芽生えたそうです。先生は、このことを父親として精神的に成長したことを示す、小恍惚を得た例として挙げています。私にも男の子が授かりましたので、この記述が今にして痛いほど分かるようになりました。渡部先生が若かりし頃、大学の入試の勉強を熱心にしていると、お母さんから「まあ、そんなに根をつめて、めじよけないこと(かわいそうなこと)」とよく言われたそうです。お母さんの気持ちが末っ子を見ていてよく分かるようになったと述懐しています。そしてそれはお釈迦様が万民をみるような「慈悲」の心と、聖母マリアがキリストによせた「憐れみ」に近いものなのかもしれません。 合掌

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