『論語』との出会いは、私が高校生の終わり頃だったろうか。それは『論語』の「子路」というものだった。
「葉公(しょうこう)孔子に語(つ)げて曰く、吾が党に直躬(ちょっきゅう)なる者有り。其の父 羊を攘(ぬす)みて、子 之を証せり、と。孔子曰く、吾が党の直なる者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直は其の中に在り、と」
〈現代語訳〉「葉殿は孔先生にこう弁じられた。『私の郷里の中に、それはもうまっすぐな者がおりましての。父親が羊を盗みましたとき、その父が盗んだに相違ありませぬと証言しましたわい』と。孔先生はおっしゃられた。『吾が郷里のまっすぐな者は、それと違いまする。[仮に盗みがあったとしますと]父は子の悪事を隠し、子は父の悪事を隠します。〈まっすぐ〉(直)の真の意味はそこにあります』と」(『論語』増補版 全訳注 加地伸行 講談社学術文庫より)
これは上智大学名誉教授の故・渡部昇一先生が、大東亜戦争で日本が侵略国家であることを暴き立てる当時の日本の風潮に対し、著書の中でこの『論語』の「子路」を例に出して、たしなめていることを読んだからだった。渡部先生のご友人であった関西大学名誉教授の故・谷沢永一先生は、吉田茂首相が東大総長の南原繁に対し「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」と批難した言葉を紹介して、当時の風潮を「学を曲げて、世に阿(おもね)る」ものと表現していた気がします。
世情は変わりたるや。いやいや、未(いま)だ侮(あなど)るなかれ。(笑)
たまには『論語』もいいかもしれません。『論語』は長いものばかりではなく、短いものもあって、覚えやすい。例えば同じく「子路」にこんなのがあります。
「子曰く、君子(くんし)は和して同ぜず、小人(しょうじん)は同じて和せず」
〈現代語訳〉「老先生の教え。教養人は、和合はするが雷同はしない。知識人は、雷同はするが和合はしない」(同上)
何か最近、これに似たようなものをテレビで見たかも・・・付和雷同というやつかな?