アレックス・ファーガソンは「聞く」「見る」という2つの基本動作を重視する監督だった。
私は指導するうえで大切なことに「話す」が入っていないことに驚いた。
アレックス・ファーガソンは著書『人を動かす』(日本文芸社 2016年発行)の「『本質』に目を凝らすスキル」という項のなかでこんなことを言っている。
「観察とは、相手の力量を測り、状況を分析する行為である」
さらにファーガソンは「見る」行為の中にも「細部の観察」と「全体像の把握」の2種類に区別する必要があると言っている。
2種類の観察があることについては、ファーガソンがスコットランドのアバディーンFCで指揮をとっていた時に、アシスタントマネージャーでファーガソンの右腕だったアーチー・ノックスから助言されて気づいたことだったようだ。
ファーガソンはアーチ―・ノックスから「監督たるもの、トレーニング中は自ら陣頭指揮をするのではなく、一歩離れたところからチームを観察し、全体を見渡したうえで指導すべき」と言われたという。自ら陣頭指揮をしていたファーガソンはそれを聞いて最初は戸惑ったようだが、最後はアーチ―・ノックスに押し切られて一歩離れたところから観察するようになった。
すると驚くような発見がもたらされたという。
視野が広がり、トレーニング全体の流れ、選手の精神状態や体力の消耗、プレイの癖などが手に取るように分かるようになったという。
そしてファーガソンはこうも言っている。
「大切なのは、そうした驚きを素直に受け入れることだ」
これは非常に示唆に富んだ話しだ。
ここにはファーガソンが重視した2つの要素が盛り込まれている。
それは「聞く」「見る」だ。
ファーガソンはアーチ―・ノックスの助言を「聞いた」。
そしてその助言に従い「見た」のだ。
最後に「見た」ものから、驚くような発見をし、またその驚きを素直に受け入れたのだ。
さて人間の3つの動作「聞く」「見る」「話す」を受動的か能動的かで分けるとしたらどうだろう。
おそらく「聞く」「見る」が受動的で「話す」が能動的なことになるのではないだろうか。
「見る」は能動的じゃないかと思われるかもしれないが、「見る」こと自体は能動的な動作でも「見る」対象は能動的に作り出すことができないことや、「見る」ことから得た事実や驚きを受け入れている点で、受動的と言ってもいいのではないだろうか。
このことからファーガソンが受動的な動作を重視していたことがわかるのだ。
これを参考にしない手はないと思うのですが、いかがでしょうか?