徳川家三代目将軍、徳川家光は困ったことがあると
亡くなった祖父の徳川家康に相談していたようだ。
徳川家光の時代は、島原の乱のほか
外交や内政問題が山積みで
徳川家光は気が休まることはなかったようである。
真面目な家光は、自分が将軍職を継ぐことなど、身に余ることだとも思っていたらしい。
相談相手もなく、何でも自分で抱え込んでしまう性格だったようで
今でいうところの、メンタルをやられてしまったこともあったそうだ。
そんな徳川家光の心の支えは
そう、あの徳川家康だった。
徳川家康は約150年間続いた戦国時代に終止符を打ち
その後、平和な時代を営々と約250年間築いた江戸幕府の開祖だ。
その平和な時代を築く礎になった要素のひとつが
家光の家督相続だった。
家光の乳母であった春日局(お福)が、二代将軍秀忠の次男忠長ではなく
長男家光に家督を譲らせるよう家康に進言したのは有名な話しだ。
それだけが理由だったのかはわからないが
家康は、忠長ではなく、家光を可愛がった。
その家康の振る舞いを見て、秀忠も忠長への家督相続をあきらめたという。
これが江戸幕府のその後のしきたりを決定的なものにしたと言っていい。
諸藩も幕府にならい、概ね長子相続になっていく。
商家以外は庶民も長子相続になり、安定した社会を生み出していく。
徳川家康は家光が11歳の時に亡くなっている。
自分を可愛がってくれた偉大な祖父の思い出は
いつまでも家光の心に残ったに違いない。
将軍職の重責は家光を苦しめることになるが
その一方で、家光は家康の視点を失わず
「おじいちゃんなら、こういう時にどうしただろうか」
「おじいちゃんなら、どう思うだろう、どう言っただろう」
と、己自身に問いかけていたに違いない。
家光にとって家康は「守り神」だったのだろう。
家康の威光は、死んでなお、輝いていたことになる。
家光は夢枕に現れた家康を絵師に書かせている。
それを「霊夢像(れいむぞう)」というそうだが
20枚程度の霊夢像が残っているという。
その霊夢像のいくつかの映像を見たことがあるが
どれも、優しそうなおじいちゃんの家康が描かれていた。
この霊夢像のいくつかは、日光の輪王寺に収められているという。