『神国日本』
これは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が書いた、本のタイトルです。
ラフカディオ・ハーンは、明治時代に日本の神話(古事記)を知り、神話が生きている日本を、実際に体験した作家です。
昨年の春に逝去された上智大学名誉教授の渡部昇一先生は、ラフカディオ・ハーンは日本の宗教をよく見ていた、と指摘します。
仏教学者や神道学者は、お経によって日本の仏教を論じたり、江戸末期の国学者の説によって論じたりするので、日本人の宗教論としては、根本的に欠けているものがある。
その点、ラフカディオ・ハーンは日本語の文献を読めなかったが、日本人の宗教行事そのものに深い関心を示したために、古い日本人の宗教をよく見ていた、という趣旨のことを渡部先生は述べています。(『発想法』PHP研究所 第3章プラトンに通じる日本人の宗教)
ラフカディオ・ハーンは日本のお祭りや盆踊りの風景を生き生きとスケッチして、その驚きと新鮮さを感想に書いています。
日本では、神社にも、お寺にもお参りするし、家には神棚と仏壇がある。日本人にとって神仏(かみほとけ)とは、いったい何であるかは、文献からではなく、生活習慣の中からこそ、読み取れるものがあるのではないだろうか。
そんなことを、ラフカディオ・ハーンや渡部昇一先生は、教えてくれたような気がします。
『渡部先生、日本人にとって天皇はどういう存在ですか?』(幻冬舎 2017年10月)は
渡部先生の生前最後の対談本と思われます。(他にも対談本がある場合は、ご容赦ください)
そのテーマが、日本という国を表現する時に、最適かつ無二のものであることに、感慨を禁じえません。
まさに、最後としてふさわしいテーマではないでしょうか。
そして、そのテーマとは
「日本には神話の力が生きている」
という”事実”です。
また、それがこの日本という国の”本質”であるということです。
渡部先生の対談相手は、フォルカー・シュタンツェルさんという、前駐日ドイツ大使の方です。
シュタンツェルさんは、若い頃に読んだ、源氏物語に度々登場する天皇という存在について、ドイツの歴史や文学からは、完全に類推不可能だった、と言っています。
日本人でも、若い頃に、天皇という存在について「なんだろう?」と思うことはあるかもしれません。
しかし、ドイツ人のシュタンツェルさんと、ひとつだけ違うことがあるとすれば、
日本で生まれ育った日本人なら、誰でも、生まれた時に天皇が存在しなかった人は、ひとりもいないという”事実”があるということです。
先祖代々、どこまでさかのぼっても、そうです。
どこまでさかのぼるかというと、
最終的には”神話の時代”にまでさかのぼることになります。
そして神話の時代に直結している存在が天皇ということになります。
シュタンツェルさんが「完全に類推不可能」になるのも無理はありません。
そんな国はどこにもないからです。
渡部先生が「日本を日本たらしめているものは天皇の存在」という由縁でしょう。
渡部先生、日本人にとって天皇はどういう存在ですか?
今ちょうどお彼岸で、今日は春分の日にあたります。
私の家の裏手には、小さなお寺があり、お彼岸になるとお墓参りをした人のお線香の匂いがしてきます。
いつも、春だなあ、と感じるわけですが
私もお墓参りに行くことがあります。
近しいご先祖さまのことを思い浮かべるのですが
そのご先祖さまをどんどんさかのぼっていくと、どこまでいくのでしょう。
もしそれが神話の時代までさかのぼることを想像すると
うっすらと、あるいは、深い深い潜在意識のどこかで
神話の時代の神さまと、繋がっていることを感じます。
近しいご先祖さまにせよ、遠く崇高なご先祖さまにせよ、
ご先祖さまに思いを馳せることは
私にとって神さまと繋がることに他なりません。
「日本には神話の力が生きている」
このことに恩恵を感じられることに
改めて感謝したいと思います。
補足書籍として是非読んで見てください。
皇室はなぜ尊いのか (PHP文庫)