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【追悼】渡部昇一先生の「白雲郷と色相世界」に寄せる記 その2 スペンサーの社会進化論に対応した漱石が陥ったものとは?

投稿日:2017年5月2日 更新日:

”眼もて美を観たる人は

既に死の手に落ちたるなれば、

もはやこの世のわざに適(かな)わざるべし”

~プラーテン「死に捧げられたる者」

漱石は幼いころから「床の間の前や、蔵の中で、南画の懸物の前に独りうずくまって、黙々と時を過ごすのを楽しみにしていたのである。 ―省略― 『青くて丸い山を向こうに控えた、また、的皪(てきれき)と春に照る梅を庭に植えた、また、柴門(さいもん)のすぐ前を流れる山河を、垣に沿うて緩くめぐらした、家を見て―無論画絹(がけん)の上に―どうか生涯に一遍でも好いからこんな所に住んでみたい』」と思うようになっていた」(『教養の伝統について』P.61参照)のである。陶淵明(とうえんめい)が世俗の活動に飽いて41歳で故郷に戻った心境に漱石は人生の出発点で達していたと渡部先生は指摘する。「漱石は幼(よう)にして眼もて南画の世界の美を見、禅機(ぜんき)にふれてしまったのである。それは一種の死の手に落ちたことなのであって、この世の仕事には合わなくなってしまったのだ」(同P.64参照)

にもかかわらず漱石は漢文学者ではなく英文学者を選ぶことになります。漱石は畏敬する長兄から世の中が適者生存、生存競争の時代になったことを告げられる。社会学者ハーバート・スペンサーが提唱した社会進化論である。文明開化(明治時代)の世の中で漢文では食っていけない(生き残れない)というのだ。漱石は好きな漢文の本を売ってまで英語の勉強をする。予備門での苦い落第の経験の後、競争と進化の世界に敢然と身を委ねる決心をするのです。渡部先生は「『文人画の世界をしばらく忘れて、西洋の教科書に思い切って身を投じて勉強してみる』というふうに解してもよかろう」(同P.74参照)と言っています。その後東大で抜群の成績を収めるようになった漱石は正岡子規との交友を得てそこで再び漢詩の世界に触れるようになります。漱石という有名なペンネームは子規が『七草集』を出したの頃から使われるようになったといいます。「そこが彼にとっては安んじて心を遊ばせることのできる聖域、進化競争外の国(world beyond evolution)となったのであった。正岡子規との出会いは彼が少年以降暖めてきた世界を温存するのみならず、さらに豊饒化するに役立った」(同P.82参照) 『七草集』の末巻につけた漱石の読後の所感には漱石自身が己を恥じて次のようにあります。「―省略― 齷齪(あくせく)として紅塵(こうじん)の裡(うち)に没して、風流韻事(いんじ)は蕩然(とうぜん)として一掃(いっそう)さる ―省略―」(同P.83参照) 英文学の勉強に埋没して、漢詩のような風流を封印していたことを恥じているのです。

”塵懐(じんかい)を脱却して 百事閑(しず)かに

碧水(へきすい) 白雲(はくうん)の間(かん)を儘遊(じんゆう)す

仙郷(せんきょう)は 古(いにしえ)より文字(もんじ)無く

青編(せいへん)を見ずして 只(ただ)山を見る”

(夏目漱石/房総雑詠 十四首 其の五)

漱石がその頃、房総に遊行した時に作った『木屑録(もくせつろく)』の漢詩です。渡部先生の文章を引用します。「東京の大学で英文学をやるのは紅塵裡(こうじんり)のことであり色相(しきそう)世界のことである。しかもこれが本業であり、生存競争の世界である。ここでは勝たなければならぬ。一方、余暇にやる漢詩のほうは、白雲郷(きょう)である。少年時代に見た的皪(てきれき)と春に照る園(その)のある南画の世界であり、スペンサーの進化論の彼岸(ひがん)にある世界である。ここでは人間は愚(ぐ)であっても拙(せつ)であってもよろしい。長兄大一によって進化の社会を説かれるまでは漱石の頭の中は白雲郷(きょう)のみであった。本気で勉強してからは色相(しきそう)世界の競争のみであった。専攻(英文科)決定で余暇ができた。そして子規の『七草集』で、漱石の世界ははっきり二つに割れたのである」(同P.85参照) その後漱石は三十歳で官立高校の教授になるが「・・・漱石が拙(せつ)や愚(ぐ)や頑(がん)にあこがれるのは、そうであっても生存してゆける少年時代に見た南画の世界、白雲の郷(きょう)をあこがれ、生存競争の文明開化の世を嫌っていたからなのだ。漱石が自分の現在の生活を『色相(しきそう)世界』と見、そこに現出している模様は『狂癡(きょうち)』である。と断じ、教壇の仕事は『塵中(じんちゅう)』にあることだと思っていた・・・」(同P.89参照) 漱石は出世したがその色相(しきそう)世界を「狂癡(きょうち)」(好むところに溺れ、うつつを抜かしている様子とでもいうのでしょうか〈著者〉)と言って、心では退けていたのです。それから明治三十三年(1900年)に文部省は留学生を海外に派遣することを決め、その第一回留学生に夏目漱石が選ばれます。しかし、明治政府の第一回留学生としてロンドンに留学した漱石は「文学論」の序文の中で「・・・英文学に欺かれたるが如き・・・」と言っています。渡部先生は漱石が少年の頃から馴れ親しんだ「文学」と「英文学」にギャップがあることを指摘し、漱石が考える「文学=左国史漢」がどのようなものであったかを丁寧に説明してくれています。ラフカディオ・ハーンの後任として日本人初の東大英文科の教授になった漱石でしたが、英文学は生涯をかけて学ぶものではないと考えるようになってしまった。高浜虚子の勧めで気晴らしに小説を書くようになった漱石でしたが、大学を辞め朝日新聞に入社することになります。漱石が本職として書いた『虞美人草』から『三四郎』『それから』『門』と作品が生まれましたが、ついに明治四十三年(1910年)に修善寺温泉で大患することになります。そして注目することはロンドンに出発してから修善寺で大患するまでの10年間、漱石は大好きだった漢詩をひとつも作らなかったのです。

⇒次回に続きます

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