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【追悼】渡部昇一先生の「白雲郷と色相世界」に寄せる記 その3 漱石がたどり着いた漢詩の白雲郷の世界

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”来(きた)りて宿す 山中の寺

更(さら)に加う 老トツ*の衣(ころも)

寂然(せきぜん)たる禅夢(ぜんむ)の底

窓外(そうがい)に白雲帰る”

*「トツ」という漢字が変換できなかったため片仮名表記とした(著者)

漱石が10年ぶりで作った漢詩です。こうしてまた漱石は漢詩を作り始めます。そしてその作風はどんどん仏縁的なもの、禅機にふれるものに傾斜していきます。漱石は夫人から大患の時、三十分ばかり生死をさまよっていたことを聞かされる。以下渡部先生の文章を引用します。「・・・生死の交替する境地から帰ってきて人間の生命、存在の根源を探し求めたがおぼろおぼろとしてついにわからない。良寛(りょうかん)の『尋ね思えども始めを知らず 焉(いずく)んぞ能く其の終りを知らん 現在も亦復(また)然り 展(めぐ)り転(うつ)れど総て是れ空・・・』というのに同じ心境である。人間はこの種の省思(せいし)に襲われる時、いてもたってもいられぬ孤独感を持つ。妻子(さいし)友人が側(かたわら)にいようといまいと関係のない、骨の髄に沁み入る孤独感である。―中略― この孤愁(こしゅう)こそ鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れに西行が感じた『あはれ』であり、良寛が五合庵の夜半の雨にそそいだ涙であった。漱石が『閑愁(かんしゅう)尽くる処 暗愁(あんしゅう)生ず』というのは、単なる風流より、深刻な宗教的回帰にぐんぐん傾斜してゆく心を表現したものにほかならない」(同P.115参照) 渡部先生は漱石の大患前と大患後で小説に不自然な断絶や変化が見当たらないことを指摘し本職として書いた小説が漱石の心の真の中核部で起こったものではないことを喝破しています。漱石にとって色相(しきそう)世界に悩む小説の主人公などどうでもよく、本当に表現したかったのは南画の風景であり、しかもその中核には深く宗教的な暗愁があったことを意味するのです。漱石が最晩年に書いた『明暗』のころになると、午前中は『明暗』の執筆にあて午後は漢詩を書いて、精神活動を二つに分けるようになります。本職である小説を書くことにも少しずつ快楽を覚えるようになり、知性と情緒の安定を見るようになるのです。「小説はあくまでも色相(しきそう)世界の葛藤だ。そこで小説を書いて俗了(ぞくりょう)された頭を、漢詩によって白雲郷(はくうんきょう)で遊ばせるのである」(同P.125参照) 仕事の時間配分と漢詩による精神的な安定によって、この時期の漱石の文筆活動を渡部先生は最も高く評価しています。漢詩についていくつかの例を出しながら「怪しい光芒(こうぼう)を放つ名品」(同P.136参照)とまで言っています。そして文筆活動が雄大な展開を見せ始めたところで漱石が亡くなってしまったことについて、その未知数と損失感の大きさをたいへん惜しんでおられます。

『教養の伝統について』の中の「白雲郷と色相世界」は、ラフカディオ・ハーンにとって古い日本の面影が大事だったように、漱石にとって「漢詩」が重要であることを気づかせてくれました。そして人間にとって、「知」と「情」の世界とそのバランス感覚が大切であることを教えてくれただけでなく、私が少年の頃から馴れ親しんだ漱石とハーンを渡部先生が題材として取り上げられ、魅力あるものに復活させたことに勝手ながら浅からぬ縁を感じ取ったのでした。

夏目漱石は49歳、ラフカディオ・ハーンは54歳で亡くなっています。明治時代~大正時代の平均寿命は乳幼児の死亡を差し引くと60歳くらいだったそうですので、ふたりとも比較的若くして亡くなっていると思います。心労がたたったのかもしれません。とはいえ、たくさんの魅力ある作品を残してくれた漱石とハーンには感謝しています。そしてこの偉大なふたりの人物像をその時代とともに紐解き、生きていくうえで自分が必要としているものが何なのかを思い出させてくれた渡部先生にも改めて感謝したいと思います。

合掌

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