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保育所の思い出 その4『S先生との思いで』

投稿日:2017年8月1日 更新日:

私にはS先生という好きな先生がいた。当時、中堅くらいの先生だったと思う。優しくおおらかで、なんとなく母性を感じさせるところがあったような気がする。S先生はいつとなく私をかばってくれた。

一度こんなことがあった。当時、私は小食で給食を全部食べることができないことがあった。ある先生(名前は忘れてしまった)から、給食を全部食べるまで遊んではいけないと言われて、部屋に居残りをさせられたことがあった。私も頑張って食べようとするのだが、うっと、気持ち悪さが喉元にこみあげてきて食べることができない。電気が消された部屋の中で、お盆の上に乗った目の前の給食を茫然と眺めていたのを覚えている。これは後日、S先生が面談か何かの時に母にこう教えてくれたという。その先生は妊娠していてお腹が減るのか、子供たちの給食をよくつまみ食いしていたというのだ。子供たちが嫌がっている様子を見ていた私がどうも注意したらしい。私が居残りをさせられたのは、その腹いせではないかとのことだった。おそらくS先生から小津先生に報告があり、私への腹いせはやめさせてくれたのではないだろうか。居残りをさせられたのはそれ一回きりでそれ以降はなかった気がする。

また、母が私を迎えに保育所に行った時、こんなこともあった。ある時、私が女の子を泣かせてしまったというのだ。私はブランコの順番を待っていた。その女の子はずっとブランコに乗ったまま私にブランコを譲らなかったようで、私はずっと我慢していたみたいだ。でもあまりにもその女の子が意地悪くブランコを譲らないので、我慢しきれず、つい強い態度で何か言ってしまったらしい。経験と思慮の浅い保母さんなら、女の子を泣かせた男の子を一方的に叱ったかもしれないが、この時もS先生から強く叱られたような記憶はない。もし、一方的に叱られていたら、怒りの矛先がおさまらなかったであろう。もちろん母からも何も言われなかった。母によると、泣かされた女の子の母親が大騒ぎしていて、「私の主人は銀行マンですけれども、あなたのご主人はどんな仕事をしているのですか?」などと関係のないことを言われたみたいだが、母は「全く気にもとめなかった」と言っていた。その女の子の態度は母親の態度と関係があるのでは?と思いたくなる挿話だ。(笑) 当時、母から見ていると、保母さんでもお母さんでも若い人はどこかツンケンしているように映ったようだ。今思うと何となくわかる気がするのは、戦前生まれと、戦後生まれの差ではなかったのではないかと思う。そもそも昔の女性は言葉使いが丁寧だった。強い口調で何か言ったり、早口でまくしたてることもなかった。まして口汚い言葉を使うこともなかったと記憶している。もちろん園長の小津先生も戦前生まれで静かで落ち着いた丁寧な言葉使いだった。戦前に生まれた女性は母を含め親戚の女性もみんな丁寧な言葉使いだったと記憶している。ただし、戦前といっても昭和2桁以降の生まれとなると、変わってくるのだが・・・。

しかし、そんなS先生も私を窘(たしな)めたことがあったという。おなじ組に双子の女の子がいた。このふたりとはいつも仲がよかったと思うが、ある時口ゲンカになって、双子の姉の方が、「家に帰る!」となってしまったことがあったそうだ。普通は口先だけのセリフだが、その双子の姉は妹を引き連れて本当に家に帰ろうとしたので、先生も引き留めるのにたいへんだったようだ。これは保育所を卒業してから母から聞かされた話しで、私は覚えていなかった。母も先生との面談で聞かされたとのことだった。その女の子が最初に「帰る!」と言った時に、引き留めるどころか私はこう言ったそうだ。

「お達者で~!」

さすがにS先生も「そんなことを言ってはいけません」と私に注意したみたいだ。だけどやっぱりS先生から強く注意された記憶はないんだな。

とにかくこんな調子で保育所では何をやっても許される雰囲気があった。それはS先生をはじめ、保育所はおおらかさと優しさに満ち溢れていた。だからといって子供たちも度を越した悪さなどもしなかった。私たちは自由だった。

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