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大宮アルディージャ観戦日記

英国人記者から見た「大宮サポーターの試合中の反応」「善意の応援団」ではアウェイサポーターに負けてしまう?

投稿日:2017年12月9日 更新日:

先日、スティーブ・マッケンジーさんという英国人記者の記事を紹介した。

マッケンジーさんは記事の中でNACK5スタジアム大宮をイギリスのブラックバーン・ローヴァーズイーウッド・パークになぞらえて、古き良き日本の”稀有”なスタジアムとして紹介するとともに、大宮サポーターの迫力の無さに違和感を持っているという正直な感想を漏らしていた。

サッカーの母国である英国人のマッケンジーさんにしてみると、ホームのサポーターの声量がアウェイのサポーターの声量に負けることなど考えられないということだった。

それは「大宮サポーターの試合中の反応」という言葉で表現されていた。

私はスタジアムについての記事に共感すると同時に、手痛いところを突かれてしまった(笑)という感想を持った。

私は「大宮サポーターの試合中の反応」の鈍さは「サッカーリテラシー」に関係していると思っている。

「サッカーリテラシー」という言葉は私の勝手な造語で「リテラシー」というのは「読解記述力」のことだから、かみ砕いて言うと「サッカーの読み書き能力」といったところだろうか。

「リテラシー」という言葉が頻繁に聞かれるようになったのはここ数年ではないだろうか。

例えば「情報リテラシー」と言った場合は、スマートフォンのようなデバイス(道具)を使ってインターネットを通じて生活に係わる様々な情報を活用できる力を表している。

お年寄りがスマートフォンなどを器用に使いこなせず、それによって情報をなかなか享受できなかったりすることを「情報リテラシーが低い高齢者層」などと表現されることがある。

「サッカーリテラシー」が低いとどうしても試合の反応が鈍くなるのではないだろうか。

今日はその理由を書いてみようと思う。

私は大宮がJ2に参加した1999年から試合を観戦するようになったが、現在に至るまで大宮のサポーターに抱いている感想は「サポーターが試合にコミットメント(深く関わること)していない」というものだ。

それはチャント(応援歌)を歌う応援団の数の大小や、その声量の大小といったようなこととはあまり関係がない。

例えて言うなら大宮アルディージャのサポーターに「子供の部活の試合を応援しにきている父兄」のようなものを感じることが多いのだ。

子供の運動部の試合を父兄が応援する姿を見たことはないだろうか。

運動部はサッカーでも野球でも何でもかまわないが子供が頑張る姿を見て親が子供やそのチームを懸命に応援する姿だ。

子供の部活動の応援だから、あくまでも子供とそのチームを応援すればいいだけで、必ずしも子供がやっている競技そのものに精通していなくても構わない。

お父さんでもお母さんでも子供がやっているスポーツ競技自体に精通する必要はない。

子供やチームの出来、不出来にかかわらず頑張る姿をただ応援すればいいのだ。

私が大宮のサポーターに感じているのはこれだ。

私が大宮サポーターに感じるのはとにかく試合中の反応が薄い、少ない、弱いということだ。

例えば選手がいいプレイをすると拍手や歓声が沸き起こる。しかしそうして拍手をする人も歓声を上げる人も極めて少ない。ボリューム感が無いのだ。

逆に選手が悪いプレイをしても同様でそれを嘆いたり叱咤激励するリアクションもあまり起こらない。

ゴールに絡むプレイに対しては得点にせよ失点にせよそれなりのリアクションが起こる。これはおそらく最も分かりやすものだからだろう。しかし、そこにいたるプロセスについては評価する表現力も批判や悔しさを表現するリアクションも極めて低調になる印象があることを否めない。

審判の誤審に至っては安易にわかるもの以外は、ほんの一部のサポーターの反応を除いて、ほとんど見過ごされているケースが多いように感じる。審判の誤審を見逃さないことはホームゲームでは少しでも選手を有利にさせる大切な要素のはずなのに、サポーターのバックアップが極めて少ないのだ。これなどはルールを知らないのではないかとすら思ってしまう。

ライン際で観戦していると目の前で大宮の選手が相手選手に悪意を感じるラフなタックルを受けることがある。私は咄嗟に立ち上がりその相手選手を轟々と非難すると同時に審判に対して強くカードを要求する。選手に大けがをさせるかもしれない悪意のあるプレイに我慢がならないからだ。しかし選手をかばい同じような行動をとってくれるサポーターはいつもほんの一握りだ。

こういうことを経験するにつけ私が思い当たったのは「サッカーを知らないのではないか?」という疑問だった。

大宮のサポーターは「サッカーを知らない」ことにそれほど疑問を感じることなく、大宮アルディージャが好きでただ観戦している人が多いような印象を与えるのだ。

それは先ほど例えた「子供の部活の試合を応援しにきている父兄」のような「善意の応援団」の如く私の目には映ってしまう。

もちろん「サッカーに無知である」ことは罪にはならないと思う。

「善意の応援団」でも楽しいかもしれない。

しかし「善意の応援団」はサッカーに精通する必要がないために「試合を応援するだけ」になりかねない。コミットメント(深く係わる)することがないのだ。

サッカーに精通すればコミットメント(深く係わる)度数はもっと上がるはずなのに、その要素が欠落しているために「大宮のサポーターの試合中の反応」はボルテージが上がらず低調に終わっている、というのが真相のような気がするのだが、どうだろうか。

しかし私は「サッカーに無知である」ことは「もったいない」ことだと思っている。

もしサッカーに精通して試合を観戦すればコミットメント(深く係わる)度数は間違いなく上がる。

選手のプレイひとつひとつ、審判の動向から、試合展開のようなプロセスにいたるまで「ディテール(細かい部分)」に目が及ぶようになるからだ。

選手との一体感やサポーター同士の一体感も生まれ、その結果手にした勝利は「善意の応援団」では決して得られない感動をもたらすはずだ。

選手もサポーターがひとつひとつのプレイを見てくれていることにやりがいを感じると思うし、手を抜くこともできなくなってくる。

しかしそうしてサポーターと一体になって勝ち取った感動は今までの何倍にもなるのではないだろうか。それが選手の活力も生み出していく。

もうその時にはアウェイのサポーターの声量に負けることなど嘘のように無くなっていると思うのだが、どうだろう。

むかし私が経験したエピソードを紹介したい。

あるJリーグでの試合のこと、私は友人たちとともにスタンドにいた。バックスタンドのライン際の席だった。

その友人の中に私から見て「サッカーに精通している」と思う友人が混じっていた。

その友人とは毎試合のようにサッカーの観戦をしていた。

応援する味方の選手がライン際で相手選手のプレッシャーに遭い、縦に突破することができずにボールをキープせざるを得ない状況に陥っていた。

私の友人はその選手に向かって大きな声で「逆サイド!」と叫んだ。

その選手は友人のコーチングの声を一点も疑うことなく逆サイドに首を振った。

そして目の覚めるような正確なパスを逆サイドにいたフリーの選手に供給したのだ。

周辺にいたサポーターは正確なパスを供給した選手を賞賛しながら友人の正確なコーチングにどよめいたのだ。

サポーターと選手が一体になった瞬間だった。

パス一本の些細な話しだ。でもこんな風に試合にコミットメントするのも楽しいよね!

試合にコミットメント(深く係わる)するにはある程度サッカーに精通しなければ難しいだろう。

ではどうしたら「サッカーに精通」することができるだろう?

その鍵は「サッカーリテラシー」にあると思う。

「サッカーの読み書き能力」つまり学習という「インプット」とスタジアムで表現するという「アウトプット」が必要になるということだ。

 

次回はその「サッカーリテラシー」についてマッケンジーさんの母国でもあるイギリスのプレミアリーグを参考にしながら書いてみたいと思う。

 

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