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小説と脚本(シナリオ)の違い《脚本は文学なりや》その1

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ボブ・ディランがノーベル文学賞を取った時に「歌は文学ではない」という趣旨のコメントを出していたと思う。確かに、ボブ・ディランが歌うようなリリック(歌詞)は文学として楽しめないわけではないけど、純粋に文学として読めと言われても少し違う気がする。文学的な価値がある、といったところだろうか。

そう考えると、ドラマなんかで使われている脚本(シナリオ)というのはどうだろう。これもやはり文学とは言えないだろうというのが私の考えだ。

テレビドラマの脚本『泣くな、はらちゃん』(岡田惠和作 日本テレビ 2013年)を読んだことがある。私はドラマ『泣くな、はらちゃん』が好きだったので何度か繰り返し見ていたから筋や登場人物のキャラクターを知っていたし、脚本もテレビドラマと”同じように楽しめるもの”、と勝手に思っていた。

ところが脚本を読んだ時の違和感に愕然とした。脚本は内容がスッカスカに感じられ、何を描いているのかよく分からない、という感覚だった。何と言ったらいいか、情報量が少な過ぎるのだ。ドラマの中で感動したシーンやセリフも、脚本だと味気ないものに感じられることが多かった。これはどういうことだろう?

それは『泣くな、はらちゃん』を読む直前まで、偶然スティーブン・キングの『シャイニング』(文春文庫 1986年)を読んでいたことにも関係している。

『シャイニング』の作者スティーブン・キングは『書くことについて』(小学館文庫 2013年)という小説作法について書いた本のなかで、小説は「叙述」「描写」「会話」の3つの要素から成り立っていると自身の考え方を紹介している。「叙述」は誰それがタクシーに乗ってどこへ行ったなどストーリーを運ぶもの。「描写」はレストランの店内の様子とか、場面をビジュアル化するためのもの。「会話」は登場人物のキャラクターを示すもの。といったところだ。

この考え方に照らし合わせると、小説と脚本の違いが明らかになる。そう、脚本では小説の「叙述」にあたる部分は少量のト書き以外はすべて場面転換に変換されていて、「描写」の部分は必要最小限の記述がト書きにある程度だ。キャラクターを浮き彫りにするという意味で「会話」の部分だけが小説と同様に扱われているのが脚本ということになる。

スティーブン・キングの巧みで豊富な「叙述」「描写」「会話」によって作られた小説『シャイニング』を直前に読んでいたために、脚本の情報量の少なさに味気無さを感じてしまったのはこういった理由からだろう。また、私の乏しい想像力ではドラマで得られたほどの感動が脚本だけでは得られなかった。脚本(シナリオ)は映像で見なければダメなのである。

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