物みなの底に一つの法ありと
日にけに深く思ひ入りつゝ
―湯川秀樹「目に見えないもの」
ウェイン・W・ダイア―というアメリカの心理学者の本に「Manifest Your Destiny」(邦題「『いいこと』が起こる心の魔法」三笠書房2002年発行 訳者 渡部昇一)があります。心理学者のアブラハム・マズローとか思想家のラルフ・ウォルド・エマソン、ジョセフ・マーフィーなどに連なる著述かと思いますが、今風に言うと引き寄せの法則ということになるでしょうか。この本の中でダイア―さんはおもしろいことを言っています。目に見えるものすべての源は、いったい何であろうか、と。物を微視的に見ていくとどうなるでしょう。例えばどんぐりを微視的に見ていくと分子にたどりつき、もっと細かく見ていくと原子、電子となってこれ以上分けられないところまでくる。それは粒子ではなく、運動し続ける神秘的なエネルギーの波だというのです。「 ― すべての源の究極は、次元を持たず、目に見える形では存在しないエネルギーなのである。これが私達の存在の本質である。それは可能性であって、物体ではないのだ ― あらゆるものは、究極的につきつめるならば形を持たないことがわかり、見えざる世界の何かが、それを目に見える世界に存在させているのだということがわかるはずだ。 ― 私達は常に二つの世界に同時に存在している。周囲を見回せば、形ある世界が見えるだろう。そして内面に思いを巡めぐらせば、この世界が、私達にはとらえようもない見えざる次元から成り立っていることがわかるはずだ」(P.25~P.26) 「内側から外界を眺めている存在こそが、実は物理的世界の源なのだと気づくことになる」(P.23) そしてエネルギーそのものはただ形を変えるだけで、消滅することがないことから、不滅の霊魂の存在の可能性にも触れています。
わが国初のノーベル賞に輝いた湯川秀樹博士の『目に見えないもの』*に「物質と精神」という章があります。物質とは何かについて、湯川博士は別の章で原子や素粒子の説明を施し物理学者として責任を全うされています。精神とは何かということについては哲学者にその答えを任せる姿勢を見せているものの、物質から精神、精神から物質への二つのアプローチ(通路)の可能性を示唆しています。興味深いのは石と猫と人間とを量子力学の観点から比較した場合、石と同じ程度の数の原子の数からできていれば原子の振る舞いの自由度は同程度のはずなのに、猫の方が比較にならないほど複雑な振る舞いをする理由がわからないと述べています。特に人間のような高等動物においては更に複雑な振る舞いをするので外面的な観測では測り得ず、内面からの観測に助けを求めざるを得ないと言っています。そしてその彼方には心理学的な世界を認めざるを得ず、物質も結局は精神の中にあるかもしれないとまで言っているのです。ダイア―さんの言っていることと似ているとは思いませんか。(ダイア―さんは2015年に亡くなったそうです。ご冥福をお祈りいたします。)
私にも以前からわからないことがありました。それは脳が物を考えるという現象です。人の脳を細かく分析してもその大半はタンパク質と血液と水でできています。タンパク質がなぜ物を考えるのでしょうか?特になぜ人の脳だけが言葉や言語を理解し抽象概念を作り出すことができるのでしょうか?そして人の脳は人類の歴史の中でいつ進化したのでしょうか?このクォンタム・リープ(論理飛躍)はどう説明されるのでしょうか。
こんなことを考えていると眠れなくなってしまいますが、わくわくします。(笑) 最新の物理学や自然科学が好きな理由もこういうところにあるのかもしれません。粒子が波であることは物理学が証明しています。そして粒子が一方で波の性質を持つ矛盾を説明できないでいることも事実です。量子力学は素粒子を時間空間的記述が不可能なものとして扱っています。素粒子の位置と運動量を同時に測ることができない(ハイゼンベルクの不確定性原理)というのですから不思議です。朝永振一郎博士の『鏡の中の物理学』*も面白いです。素粒子は粒子かとの問いに「米粒のようなものではない」と朝永博士らしい比喩で教えてくれます。有名な光子裁判も面白いので、このような書物を通して先人の賢者との対話を皆さんもしてみてはいかがでしょうか。眠れなくなること請け合いです。(笑)
*湯川秀樹「目に見えないもの」講談社学術文庫 昭和51年(1976年)発行 朝永振一郎「鏡の中の物理学」講談社学術文庫 昭和51年(1976年)発行